「気遣い」と「優しさ」

ふと「気遣いと優しさは違う」と思った話。

 

人と生活してて、「あ、これしてくれてたんだ ありがとう」と思う時、2種類のタイプに分かれるなと思った。

 

例えば、ホットサンドの材料を先に全部持ってキッチンに行ってくれたり、ドアを静かに閉めたり、早くご飯を食べたいはずなのに黙ってスマホ触ってタイミングを見計らってくれたりするのは、気遣い。自分が反対の立場になった時に相手がこうしてくれたらいいな、を先回りで行動すること。たまに、少しだけ、「私はこう行動してるんだから、あなたも同じようにしてよね」という圧のようなものを感じる、ことがある。言葉の節々に「〇〇してくれなかったから自分もしない(というか言葉ではっきりとも言っていた)」の類の感情を感じ取ると、せっかく有難いと思ったとしても、あ、そうですか、とほんの少し心が冷めてしまう。

 

対して、自分だけ休みの日にシェアの部屋を掃除したり、マグカップを洗ってあげたり、干し忘れてるズボンを困るだろうなと思って代わりに干してあげたりするのは、優しさ。別に相手が同じ行動をしてくれなくても全然いいし、結果に関係なく純粋に相手のためにしてあげた方が気持ちいいだろうな、助かるだろうな、と思ってする行動。これ美味しいからシェアしたいなと思って一口あげるとか、相手が取りやすいだろうなと思って木の枝を引っ張ってあげるとか。無償の愛的な行動は優しさと呼んでいいんだと思う。

 

自分にもしてほしいと見返りが感じられるのが気遣いで、お返しに何もしてくれなくてもいいから相手のためにしてあげたいとしてあげるのが優しさかなと。ぼんやりね。別にそこを気にしすぎて生活してたら、感謝も芽生えにくいし、そこまで重要視することでもないんだけど。あ、今のは今後の私にこう行動してほしいからやったんだろうな、と気付いてしまう時、少し悲しい。と同時に、優しさと愛でいっぱいの家族や友達に囲まれて生活してたんだなあという感謝の気付きも大きい。これまで気にしなくてよかった環境がとってもありがたい。そんな区別なく人には優しくできる自分でいたいなと思った、2023冬(夏)。

 

だからといって、相手がどうなってほしいとか、そこまで期待はしない。ように気をつけてる。相手に押し付けることはまた別のことだから。私がありがたいことによく「優しいね」と性格を形容していただけるのは、そういった何気ない優しさ、相手のことを考える寄り添い力が人より長けているからだと思うことにする。というか本当にそうなのだと思う。優しいって、私の何を見て言ってるの?と思ってたけど、人は人がしてることを案外よく見てる。時には、当人以上に。だから、相手がやってくれないから自分もやめるとか、このレベルの優しさしかあげないとか、そんな選択肢は持たないように。相手がどうであれ、自分は自分にできる優しさを、出会えた大切な相手には無償の愛を、できる限り注ぎたいと思う。私は私の優しさをあげたい。自己満足だとしてもそれでいい。返ってこなくても構わない。相手が少しでも気持ちよく、嬉しく、幸せになってくれたらいいなあ。欲を言うなら、その優しさと愛が循環していっぱいの世界になればいいなあ、と思いながら。自分を整えて、相手に優しくできる余裕を持って生活しようと改めて思った。おわり!